金子は週に一度自然の中に身をおきます。その時感じた事を書きます。
   
2月11日

最近の投稿は、ブログ、空の気持ちに毎日しておりますので、
そちらを見て頂ければと思います。
しかしこちらがホームなのでこちらもがんばって書いていきます。

私は自然を感じることで身体を意識します。
その逆もあります。
身体に目を向けていたら自然に目が向いていく、というのもあります。
自然に惹かれるものは、その美しさもさることながら、命の強さです。
そして全てを受け入れている事です。

人の在りようもそんな感じが良いと思うのですが・・・

例えば強さは、自然に即しています・・もうそれは強い弱いという事を超えた存在なのでしょう。

われわれ人間はまだそこにこだわっています。
だから弱い・・。
しかし弱いからこその学びもある。
今は学びの最中・・・

先日大島で牧場で牛を見てきました。
なんとものどかです。
外側から客観的にその風景を観察しました。
それは自然そのものでした。
自然の中に命があり、風に吹かれてもそれに沿う自然がありました。

後ろは飛行場です。
牛たちはそんな飛行機の音にも風の音のように、のどかにそれを眺めているのです。

 
1月15日
都会の人達は自然に癒しを求め出掛けてきます。

大島の自然も美しく癒される場所でしょう。

しかし私が感じる自然は癒しという言葉の前に厳しい、という言葉が頭に浮かびます。
風は常に吹き荒れて波は荒いです。

でもそれがあるから、たまに自然が機嫌のいい時は、いつになく自然の美しさが際立ちます。

 
1月4日
みんなと初詣に行って来ました。
山中の祈るヶ所を廻り自然に身を置きます。
一般的な初詣とは異なり身体に堪える初詣です。
子供と大人達一緒に参ります。
長い階段があります。
そこを上っていくとちょうど太陽の光が真っすぐ降りてきました。
階段はきついのですが先の太陽があまりにも綺麗な事にきつさは飛んでました。
太陽は全てを包んでいました。
今年の初詣は身体が疲れました。しかし良い疲れです。
みなさんよく頑張ってくれました。
簡単に手を合わせることと、身体いっぱい使って合わせることは、身体いっぱいのほうが、効きがありそうです。
神仏の事は眼で捉える事ができません。
が、身体を精一杯使い手を合わせる事はできます。自然は身体、身体は自然…。
 
12月17日
森を散歩していると自由に空に放たれている木に出会いました。
青い空に悠々とそびえています。
なんのためらいもない美しさと強さを感じました。

それを見たとき私は命の自由さと無我を見たようでした。
呼吸は深くなり辺りに意識がしみわたるようです。

しばらく歩き続けると老齢の一人の女性が知り合いの方と話しをしているのを耳にしました。

聞き耳を立てたわけではないのですがすれ違い様私の耳に入ったのです。
「私は毎日このコースを歩いてるのよ、ここから富士山も見えるし、まだいいとこあるから行きましょ…。」
そう連れの方に話していました。
その話す声の力強さに気迫さえ感じます。
遠くを見る眼は透き通って綺麗でした。
その時私は思いました。
老いるとはこんなにも美しい事か…。
命の美しさを感じました。
 
12月14日
意識を内側に向けることが大切なことだ。
自分をしっかり見つめなさい。
そんな言葉を耳にします。たしかに自分を見つめることは重要です。
しかし私は稽古で気持ちを外に向ける事を大切に考えます。
武術的に考えると、相手がいて意識が自分に向かい過ぎると筋肉が強張り上手く動けません。
しかし意識を外側に向け相手とその周りに気持ちが行くと身体は自由に楽になります。
よく悩んだりして下を向き腕を組む動作をすると悩みは解決に向かわない気がします。
そんな動作に気付き、さ、悩むのやめよ、って気持ちを切り替えた時は頭を上げ、のびをしたりしますよね。
身体は外側と関わっているからでしょうか。
山に行き感覚を開きます。私は寒いのが苦手です。身体が冷えて体調を崩す事がよくありました。
あるとき山で気付きました。身体が冷えるのは内側ばかり見てるからか?
そんな直感でした。
内側を見過ぎると恐れが生まれる気がしました。
山でのびをしました。
木々を見ました。
空を見上げました。
私の意識は外側と繋がりました。
それからは寒さに恐れを感じなくなりました。
今でも少し気温が高ければ素足に下駄で稽古場まで行きます。
 
12月12日
身体が自然と関わることにより身体の自然性が磨かれるのだと思います。
身体の大切さはみんなが分かっていることですがそれでも頭で考えることに重きを置きます。

先日山に登ってきました。
夕方から出かけたので帰り道は夜になってしまいました。
外灯は全くありません。
心が闇に支配されます。

暗いところが苦手な私は筋肉の硬直を感じました。
頼りになるのは感覚しかありません。
筋肉を緩め闇に身体を委ねました。
見えない目も暗闇に馴れ感覚が広がります。
すると心に余裕が生まれました。
空を見上げました。
星が綺麗です。

緊張し心が閉じている時は空を見上げる事など考えもしません。
身体を自然に投げる事で命は自然と同調したのだろうか…
自然は私にいつも気付きを与えてくれます。
 
4月9日
身体の感覚。
動きを探究することで大切にしていることがあります。
私にとってそれは自分の感覚、これを研ぎ澄ませることに重点を置いています。
何かを見て自分に無意識に取り入れていることもあります。

では感覚を研ぎ澄ますとはどういうことだろう。

人はどうしても外側からの情報を知り、それを自分に取り入れています。
感覚とは言ってもその情報が多いと、自分の感覚が出てきにくいこともあります。
動きが簡単にサラサラと出来すぎてしまうことがある。
そんな時はなんとなく気持ち悪い。
何かぶつかり、通らない、そんな感覚があったほうが私には真実に感じてしまう。
出来ないという感覚。
これはとても大切に働きます。
出来ようと感覚が目を覚ますからです。
出来てしまってる時は眠っています。
それは,慣れ,に近い感覚かもしれません。

ある時期、動きの情報を入れたくない時期がありました。
武術関係の映像、書物、それらを情報として入れたくなかったのです。
それに影響されすぎて自分の感覚が出てこなくなることを嫌いました。
さまざまな分野でよく言われること、いろんなとこに行っていろいろ見て勉強しなさい。
しかし私の感覚はそれを嫌います。
見すぎることの恐れ。情報を入れすぎて頭でっかちになり身体が動かなくなる。
そんな気がしたのです。・・するのです。

私は山によく入ります。
それは自然と一体になりたいからです。
よく言われることではあります。
しかし感覚としてほんとに自然になりたい感覚があります。
でもなれません。
山を歩き、自然に身体を投げ出してみる、でも一体という感覚にはまだなれません。
夜山に行けばすぐわかります。
闇に溶け込むように歩こうとしても無意識に闇を遠ざけてしまいます。
それでも山に入り身体が自由になる感覚はとても自分には心地よく解放感に包まれます。
山で剣を振れば軽く感じます。しかし満足はしません。やはりぶつかりが無いとだめなんです。軽すぎてもいけない。
重いな、身体が・・。
そんな風に感じた時は、身体の感覚が目を覚ます時です。
それを思えば闇を遠ざけようとする感覚もまんざらでもないか・・・。
 
3月23日

身体に意識が向くということ。
日々のストレスの中疲れるのは心ばかりです。
身体も疲れているのですがそれ以上に心に意識が行きます.それを身体に向けると,体を休める事で心にも安らぎが生まれます.もっと身体を信じてみたいです.心以上に身体に秘められている可能性はあるような気がしています。
どのようにしたら身体に意識が向くのだろう。
私が今思っている事は,どうも身体が今関わっている事と関係しているのではないかと思っています.様々なことが便利になり,私達は過ごしやすくなってきています.しかしそれと引き変えに失われているものもあります。それが身体の感覚であったりします.今,身体が関わっているものといえば,情報を得るためのPCや携帯電話,コンパクトなゲーム,などが多いです.確かに便利だし,楽しいです.それらはこれからも新化し、より便利さは増すでしょう。
昔は便利になるために身体を使ったし,何かを創り出すために,自分でものを考えました.今は自分が考えなくとも,情報は向こうからやってきます.しかもすばやくです。
身体が目覚める事はいろいろな事が発端で拓くとは思います.しかし今の関わりかたのみでは,身体が目覚めたとしても,とても冷めた芯のないものになってしまう気がします。
何かを見つめる事にしても,とても速く眼を動かします。大きな木を見つめるような
事は少なくなりました.木を見ても具体的な情報は伝わってきません.しかし何か自分の心に生まれるものがあります.心が動きます.・・見るだけでです.感動という言葉が今も尚,人の心を魅了します.それは本来人は感動したい生き物なのではないでしょうか。そしてそれはとっても単純な,自然にあるような気がしています。
 
10月23日
先日山に行きました.急な坂を登っていきます.そのコースは山の中でももっともキツイコースです.距離は短いのですが.このコースは富士登山をする前にこのコースで1ヶ月も訓練すれば登頂できると言われているコースです。そこを私は水4リットルを背負って登ります.以前毎日このコースを1年間通いました.その時の身体の疲れと、今の身体の疲れかたどちらがキツカッタカ、前のほうがきつかったんです.先日登ったときはぜんぜんきつくないのです.何故だろうと、それは身体の使いかたが変わったのです.以前は確かに力はありました.今は日々の稽古で腰を落とす使いかたが余計な力を使わずにできてきたのです。その結果山を登るときの身体が楽になってきたようです.力を抜く稽古が、力をつけてきました。
身体には意識をして使うからだと、無意識に使ってるからだとあります.筋肉を育てるときにその個所を意識すると良く育つと言います.しかし無意識に使ってる身体は疲労を感じていません.知らないうちに育つのです.稽古の筋肉はどうやら無意識に使っている筋肉のようです。

ようやく秋らしくなってきました.空気が澄んで空も高いです.今体を使っておくと寒さに負けません.寒くなる前に自然のある場所にいき稽古をしてこようかと思っています。
山で稽古をすると体がすごく動きやすいです.関節も良く動くし、疲れにくいです.
そういえば何故4リットルの水を背負ってもつかれないのだろう.もし石ころだったら重い気がします.水は背負ってると身体の中の水と溶け合ってしてしまう感覚があります。だから重さを感じないのかもしれません.しかも山のおいしい水です.ほんとにおいしいです.その水でコーヒーを飲むとたまりません.ご飯を炊いてもいいです.自分で背負った水ですから、うまいはずです。

さて本日23日は観音霊場に行ってきました.そこはとても大きな観音様がいらっしゃるところです.ある方に伺った事があるんですがここの観音様は本当に魂が入っているので是非行くといいですよといわれ何度か訪れたことがあります.しかし当時は格別なにも感じなかったのですが、今回行かせて頂いてその気の雰囲気になんとも言えぬ気持になりました。
今まではその大きさだけを見てたのが今回は全体を捉えて見られたように思ったのです.観方が少し変化してきたのでしょうか、武術で相手を見るときに見、観で捉える稽古をしています。そのような見方捉えかたが日常に活きたのでしょうか。
稽古でのさまざまな所作、心法がふとした所で生きているととても新鮮な気持になります。
 
9月6日
自然の役割とは一体なんだろう。ふと考えてみた。水は生き物が生きていくのにとても大切で,汚れたものをきれいにしてくれる。植物は空気をきれいにしてくれる。土は植物を育て地球上で発生したものをまた土へと返してくれる。海は生命を生み出し,人の生活を助けてくれる。さまざまな自然は元に返す力がある。人が本当に救いを求めたとき自然は助ける事をせず,元に返る力を思い出させてくれる。原点。赤ちゃんの時の生命力,透明な眼。安定した心。身体。・・蘇る力は自然が知っている。
きれいな川を見るととても心が安らぎます。朝の太陽を浴びながら清流を見つめるとああなにもいらないなという気持になります。そして触れると冷たくて思わず顔を洗いたくなります。手ですくって一口飲みます。これらの事は,自然が身体を元の状態に導いているのかもしれません。木々の中を歩いて思わず手を広げる事,深呼吸をしたくなる事,自然と向き合うと身体,心の原点を教えてくれているように思います。
力を抜く事が大切だと誰もが知っています。何故でしょう。力を入れることは動きで言えばとても遅くなるような気がします。意識が働きすぎて身体が遅れるのです。自然は力みがないように見えます。それでも力強さよさを感じます。しかし意識が働かないと判断する力に欠けるようにも感じます。例えば善悪,自然に善悪の判断は感じることが出来るでしょうか。
というかしないのではないのでしょうか。そこに存在する事にただ自然で,生きる力に沿ってあるがままに流れ、咲き、吹き、美しさをかもしだしています。
良い悪いは人が思っていること、自然はそこはもう超えてきたのではないでしょうか。
先に待つものは何かわかりません。でも自然の美しさと、心地よさは、人に安らぎを与えている、それは直感できます。
 
8月6日
暑い日が続いています。風観で大島に行ってきました。暑かったですけど都会の暑さとはやはり違います。クーラーはいらないんですから。
5年ぶりに泳ぎました。やはり海はいいです。身体に活力が生まれます。
長年滝にあたる事をしていたため身体が冷えきっていて海に入れなかったのです。水を見ると禊モードになってしまい、意識が切り替わっていたのです。
今回ようやく海に入れて。最初は緊張したんですけど。だいじょぶでした。
生まれ育ったところというのは身体が安らぎます。自然の豊かな場所で育ったのですがそのときは、その尊さなど解らず、離れた今とてもそのすばらしさに気付いています。
風観の子供達と大島に行くと自分の子供の頃を思い出します。夏は毎日のように海に行き,貝をとって砂浜で焼いて食べていました。砂浜には缶が落ちていてそれを拾い火をおこして海水でゆでて食べてたっけ。小学5年生ぐらいだったかな。そのときは恐れとかなにもなかったです。子供の頃全力だったなー。疲れるとかもあまり感じなかったし。
今の子達はよく疲れたーと口にします。何故でしょう。自然と遊ぶ事もあまりないですからね。移動は乗り物ですものね。歩く事が圧倒的に少ないですよね。
合宿の稽古でも疲れたーと言ってました。稽古が終わったら外で遊びまわっていました。それを見て,これでいいんだなと思いました。自由に外で遊びまわるなんて事は少ないでしょうから。のびのび動いてくれたらいい。そこから何かを感じていくでしょう。
子供達が外から帰ってきて,いきなり杖を持ちだし稽古をはじめました。どうしたの?自由時間だよ。と言ったら,船の中で考えた技があるから見てくれという。2人で考えたらしいんです。見るとなかなかさまになっている。自由だー・・・稽古時間外のほうが集中していました。それでも最後の稽古はバリっとなっていました。やるときはやるなーなどと思い見ていました。それと新しい子さなちゃんが合宿にきました。動きはまだですけどその代り号令をかけてもらいました。そうしたらこれが上手なんです。詳しく教えたわけではないのに。真っ向構え,という掛声の凛とした事。これからが楽しみです。暑い日はまだ続きます。時間がありましたら緑のあるところなどに出かけて身体を解放してみてください。
自然の癒しが1番ですよ。
 
6月11日雨・・虹の出た日に。
癒し。風が香る季節です。いよいよ梅雨です、草木が喜んでいます。人は憂鬱になります。なぜでしょう。小さな頃私は雨が好きでした。雨はなぜか落ち着くのです、ボーっと雨をよく見ていました。雨に濡れるのも好きでした。なぜだろう・・・今思えば梅雨はよく眠れていたなー。大島は雨の多いところです。だから紫陽花も綺麗です。いい香りがします。雨に濡れると植物達は気持よさそうです。それを見ているだけでも心が癒されます。雨の日は植物たちを見てください。いい顔をしてます。知らないうちに憂鬱な気分は消えます。雨の日・・・心が安らぐ日です、体も力を抜いて見ましょう。やわらかな音楽でも聴きながらリラックスを楽しんでください。
梅雨の山。いいです。私と山に登ると雨が多いです。そう、雨男は私です。川の水が気持いい。雨が降ると水量も多くなります。霧も出ます、誰もいません。霧もやを歩いていくと下界を見下ろすところに来ました。雲海・・・・すごく綺麗です。鳥達もさえずりながら雨に濡れた木々を飛び交っています。憂鬱な心。人も自然に目を向けると植物、鳥達と同じように楽しむ事が出来ます。

身体に目を向けると呼吸が楽です。ただ歩いているだけでさわやかな空気をいっぱい吸い込んでしまいます。緑の香り、雨の音、それは大地を癒し、疲れたさまざまなものを洗い清めているのかもしれない。
小さな頃雨を飲もうとした事はありませんか?空を見上げ口を大きくあけて、その時の雨は甘かった。そんな記憶はありませんか?あの時雨を見ませんでしたか?空を見上げた時の雨・・・あのときの雨、好きでした。あの時私達は自然を受け入れていた・・・そんな気持を忘れないでいたい。 
 
2005年4月3日
新緑が芽吹いて気持ちがいいです。山にくるといつもそうですが,一人でこの気持ちよさを感じるのはもったいないなーと思いながら登っています。家の近くの公園もきれいな緑がありますがパワーの質が違うような気がします。山なんかにしょっちゅう行ってて現実から逃避しているなどとよく言います。そうかもしれません。
深呼吸が気持良いです。いろんなストレスは緑と風が洗い流してくれます。一人で身意動放の稽古をしたりします。室内と違い解放感があります。筋肉もよく伸び動きもなめらかな感じ。

山にはお寺もあります。必ずお参りはします。なぜかというと山にあるお寺は人のうちと同じで無断では人のうちの玄関に上がらないからです。こんにちはといってあがります。山のお寺もおなじです。こんにちは、おじゃましますと挨拶をして通ります。山の上でおそばを食べました。おいしかったです。

下りです。登るときよりも下りるときのほうが筋肉を沢山使います。早足で下ります。急なカーブとか石ころを避けながら下ります。上体の力を抜くのがコツです。前日に雨が降ったので葉っぱや土が濡れていました。そこに足をとられて「あっ」と思ったら転んでしまいました。くるっと横に転んだと思ったら、立っていました。すごく低い姿勢で片手をついて空中で回ったみたいです。身体が勝手に空中で受身をとっていました。どこも擦りむけませんでした。そのまま無事下りることができました。
今はとてもいい季節です。筋肉の解放と深い呼吸をしにまた自然の中で自分の身体を見つめに行きます。
 
 
 
 

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